【箸墓古墳】(はしはかこふん)
倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)
【倭迹迹日百襲姫命】は≪日本書紀≫にて
崇神天皇に神意を伝える巫女的な女性として描かれ
大物主神の妻となったが、神がやってくるのは夜で百襲姫は神の姿を見たいと願った。
大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、これを見た百襲姫が驚き叫んだため、
神は御諸山(三輪山)に姿を消した。百襲姫は悔いて座り込み箸で陰を突いて亡くなり
故にその墓を箸墓と呼ぶようになったと記す。
「是の墓は日に人作り 夜は神作る。故大阪山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに人民相つぎて手ごしにして運ぶ」と記しているのもおそらくこれまでとは隔絶した規模を有する大古墳の出現に人を越えた神の力を見たためではないだろうか。
箸墓古墳に使用された石材は芝山(大阪腑柏原市)の安山岩、玄武岩であり「大阪山の石」というのも合致する。
この古墳を『魏志倭人伝』が伝える倭の女王「卑弥呼」の墓とみる説もある。
『日本書紀』が記す倭迹迹日百襲姫命の地位や巫女的性格は『魏志倭人伝』が記す
「卑弥呼」とも共通する部分は多い。
卑弥呼は「日御子」(ひのみこ)あるいは「ヒメミコ」の当て字とみるのが妥当とみられ「邪馬台国」も「ヤマト国」だと素朴に考えると箸墓古墳は「ヤマト」の「ヒメミコ」の墓ということにもなる。
卑弥呼と男弟は百襲姫と崇神天皇に対比でき、古代日本で行われた祭祀はヒメ、軍事や政治はヒコといった共同分業的統治「ヒメヒコ制」がこのあたりに反映されているようだ。
『古事記』中巻には【活玉依毘賣】(いくたまよりひめ)のもとに夜ごと訪れる男の素性を知るため麻糸を通した針を男の衣に刺しておくと、翌朝 糸は三輪山に達しており
男の正体が大物主の神であることがわかったという話を記し、この時、麻糸が三重残ったところから三輪(ミワ)という地名になったとういう地名説話ともなっている。
玉依媛とは、神霊(魂)の依り憑く女性という名であり『日本書紀』は活玉依媛を大物主の祭主となり神君(みわのきみ)≪三輪氏、大神氏≫の祖となった大田田根子(おおたたねこ)≪意富多多泥古命・大直禰子命≫の母だとする。
箸墓とおなじく神婚譚であるが、神武天皇の皇后【比賣多多良伊須気余理比賣】(ひめたたらいすけよりひめ)もまた大物主が丹塗矢に化して勢夜陀多良比賣(せやたたらひめ)を娶って生める子だと『古事記』は伝えている。
【玉依姫命】(たまよりひめ)
・神道の女神
・海童の娘
・神武天皇の母≪彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊≫(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の妻
・水の神
・火雷神(ほのいかづち)の妻≪加茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の母≫
・事代主神の妻
・子=鴨王(三輪氏の祖)
五十鈴依媛命(綏靖天皇の皇后)
【神大市比売】(かむおおいちひめ)・・・山の神【オオヤマツミ】の子
* こちらには【姫神】さま1人と【男神】さま2人が眠って居られる気がした
何でやろ?